夜に旗を振る

※音楽とか文房具の話とか。個人の感想です。

グレゴリー・コルベール 「ashes and snow」@ノマディック美術館(お台場)

前日の授業で "好みではない写真展も見て、作家の視点を考えてみる"って話があって、既に見た人から賛否両論の感想を聞いていたので、あまり純粋な心持ではないまま観に行った。


最終日なのでチケットを買うにも15〜20分の行列。それからまた入場まで10〜15分。来ているのは若い人がほとんど。2m×1.5mくらいの和紙にプリントされた写真と、10分程度の映像が2本、1時間の映像が1本。短いのは全部、長いほうは20分くらい見た。


結果として、前日の復習にはとてもよい教材でした。一言で言うと、西洋人向けのヒーリングビデオ。連れはラッセンっぽいと言ってた。


↓長くなるのでたたみますよ。




和紙にプリントされた人間の輪郭のまるみや、セピアの階調、無駄を省いた構図、スローモーションの映像は美しいとしか言いようがない。美しいんだけど、すごく違和感がある。


気になった点が2つ。


全編セピア。動物も植物もセピアマジックで幻想的になり、生きている感が削除される。けれど、ヒョウは生きるために血にまみれた獲物を食らわねばならない。傍らで眠る子供は捨身飼虎となるのか、ともに馬を狩るのか。それに、泳いでる川、相当透明度低いけど大丈夫?


人間と動物の交流がテーマらしいけど、出てくる人間は一部を除いて瞳を閉じているか、眼がはっきり映らない。はっきり開けているときは動物は映っていなかった。言葉が通じない相手とのコミュニケーションで眼の役割は大きい*1。眼を開けているということは、そこに意思があることを表している。なのに、作品の中の人間がほとんど眼を開けないのは、意思を動物に伝えていないということだ。表すことが威嚇になるとか、構えず無防備になることで自然の状態で交流する、という解釈をネット上で読んだけれど、意思を示さないことが交流になるのだろうか。交流と言いながら眼をつぶり、実際の撮影では場を人間がコントロールしている(下でボートを引いたりしてるはず)。自然との交流を実現するため、自然でない方法を抱え込まざるを得ない、その矛盾が心地悪い。


もし「合成処理は施していません」という売り文句が無かったとしたらと考えて、そうか、納得した。作成手段についての前情報から抱いていたイメージと実際の作品の世界にギャップを感じたからだ。写真に加工は行っていないとうたっているけど、動物が野生だとはどこにも書いてない。賛否の否側だった先生(報道写真出身)は、カメラのこちら側に像使いや鷹匠の存在が感じられるのが嫌だったと言っていたが*2、これはあくまで、アートなんだ。作家の頭の中の理想の世界を実現することが目的で、そのために余計なものは排除している。それって自然?と思うのはアートの鑑賞法としては正しくないのかもしれない。作家にとってプロセスや手法は二の次だとしても、観る側の事前情報として「合成してません」ってことばかり聞いていたから、実際に見て変な感じがしたんだな。加工していない写真を使っているというのは客寄せ文句なんだろう。


作品は動物と現地の人を一緒に写しているらしいけど、そのアジアやアフリカの人たちがこの作品をみたらどこに感動するのだろうか。この作品群のターゲットは自然界の構成要素としての人類ではなくて、物質社会に生きていて身の回りから自然が消えていくことを憂えることができる人だろう。そこが、西洋人向けのヒーリングビデオたる所以。だからロレックス協賛。



で、そんな大手が協賛していて入場料が1900円ってのは高い。1900円払えない人は観るなってことでしょう?映画1本と同程度ったって、割引もほとんどないし(フジテレビ見学すると1000円になるらしい)。自然保護の啓蒙であればできるだけたくさんの人に見てもらおうとそれなりの値段に企画するものだろうから、そのあたりの差別的パトロン精神がすごくひっかかる。銀座シャネルのエリオット・アーウィット展は無料で100ページ以上もある写真集をくれてたよ。かかってる元手が違うとはいえ、企業メセナのありかたをちょっと考えてしまう。

*1:人間が得る情報の8割は眼から (http://www.md.tsukuba.ac.jp/chs/sennko/kinou/k_ganka/k_ganka.htm

*2:映像の中に、カメラへ向かってきた鷹がカメラの後ろの何かに着地しようとする体勢を取る動きをみせているものがある。あれはカメラマンに向かっているわけではないだろう